町民運動会

 やっと終わりました。育成会の体育部部長という立場上 仕事がいろいろあって、とにかく無事終わってよかったのひとこと。運動会当日の朝、吐き気におそわれ、2度ほど吐きおまけにそのあと下痢。一日持つのか正直なところ自分でも自信なかったのです・・。運動会が終わって家にかえりひそかに検温。最初37度。少し熱あったかあ と横になっていたら悪寒、関節痛がひどくなりまた検温。お-38度だ!でも一日砂埃の中でいたから風呂には入りたいし。しばらくしたら少し汗をかいたので、再び検温。37度2分 よしいまだ。風呂にすかさず入りそのまま寝ることに。  さてきのうお茶2本しか口にしなかったから、今朝炊いたおかゆの美味しかったこと!熱は下がったけれど胃腸が今ひとつ。でも今年夏少々増えた体重は一気に落ちていました。これはラッキ-。そろそろついた分の体重を落とさなければと思ってましたから。結局のところ、体重は食べ過ぎれば太るということなのですね。当たり前だけど。だから食べなければ減る。簡単です。でもせっかくの食欲の秋、美味しく食べる幸せ感じたいです。今日はおかゆの美味しさで充分 と言うところでしょうか。

子どものためのリトミック

 小学生対象の子どものためのリトミックが 来る10月9日(月)県民文化会館 リハ-サル室にて行われます。午前9:30~11:00まで。受講料おひとり1500円です。付き添い保護者は無料、リトミック指導者の見学受講は2000円です。  リトミック月例会受講者で、小学生のリトミックをやってみたい方、小中学校の先生方大歓迎です。毎日の子どもたちへの指導の中で役立つことがたくさんあると思います。  講師は 石田保代先生(リトミック研究センタ-埼玉第一支局長兼チ-フ指導者、本部養成校講師)です。一回ごとの受講も可。  

国語

 藤原正彦氏の「祖国とは国語」(新潮文庫)を読んでまさにそうだ!と思い、教育の質というものをまた考えさせられた。  高次の情緒は教育で培われる というところその通りだなあと思う。色々言っていてもうまく伝わらない。どうか皆さん この本読んでみてください。  今日レッスンに来たYちゃんとお母さん、うちの本棚から毎回本を借りていく。(絵本から大人向けまで自分で言うのもなんだがこの本棚は品揃えは豊富である)-実はこの本棚 近くに住む友人Sちゃんが子どもをレッスンに通わせながら「絵本から難しい本までこんなに本あるんだから本棚つくってレッスン待ちの子に読んでて貰ったらいいのに」のひとことで始まった。-  で、Yちゃん親子、今日のレッスンの時「先生 この本よかったです。少しずつ読んであげたんだけれど最後Yも私も泣いてしまって・・・」本を読みながら泣く ああいいなあ。Yちゃんきっとこれからもたくさんの感動する本に出会っていくだろうな。なんて思った。来週お祭りでレッスンお休みなので Yちゃんはまた3冊かりていった。  国語の教科書で名著が取り上げられないのは 漢字が到達年次に達しないものや文語への抵抗があるからだとか。だれが決めたか知らないけれど 確かにこどもたち 名作を知らない。というより読書をしない。  世の中のお父さんお母さん 本読んでますか?子ども達に本勧めていますか?レッスンが終わっても帰ろうとせずにうちの本棚の本読んでいく子ども達見てると、今の子は読書が嫌いって言うのは嘘だと思います。環境でしょ 全部。なんだか子ども達にゴメンナサイだ。情けない。

ももちゃんの公演から

 今年二月で一時活動を休止している劇団「水と油」のももちゃんの活動休止からの生き方に圧倒されている。子どもたちと創った三月の公演「アクシデント」から半年 芸術家として、人間として、私はももちゃんに憧れを抱いている。  9月9日 代官山の温室だったところでやった毎回20名限定公演では水を張った中での演出だった。今回はア-ティストとのコラボでもあったが、ももちゃんのこれまで半年は、あらゆる可能性に挑戦している感じで、とかく今はこんなところかな のような生き方をしている私にいつもガツンガツンとパンチを与えて貰っている。  仲間を限定して生きるほうが楽に決まっている。しかし、分野が違い、向いている方向が違うと思う人とおもわぬところで接点を見つけたときの爽快感はまた格別であると思う。だから不可能の文字はないかのごとく創作活動をしているももちゃんのこれからに期待しつつ、自分自身にもまたハ-ドルをあげていこうと思う。  しばらくフランスに修行に出かけるももちゃん。どうぞ身体全開でいろんなものを吸収してきてください。私もまたオルセ-やル-ブル ダリの美術館での感動味わいたいです。はあ 行きたいなあ。

リトミック研究センタ-東京支局15周年

 9月2日3日と代々木のオリンピック記念青少年センタ-で東京支局の15周年のイベントが行われ多彩な講師陣による講座が行われた。両日参加したかったがあいにく3日は長野の月例会と重なり土曜のみの参加となった。  打楽器の杉山先生、バロック期のダンスの澤口先生どちらも 子どもたちとの公開レッスンつきである。リトミックを指導する先生方皆さんに共通するのは、絶えず新しい分野への挑戦をしていらっしゃること。演奏家としてだけでも多彩な打楽器の杉山先生はアフリカンダンスで学んでいらしたことを講座の中で取り入れられていた。モチ-フがモチ-フだけに一瞬のためらいが受講生にみられたが、なんのその!ご自身のパンチのきいた動きに思わずつられてしまう。澤口先生にいたってはピアニストでも十分すばらしいのに中世の歴史からすべてを学ばれ そのなかで生まれたダンスというものを丁寧に教えてくださった。  今の時代 結論ばかりの羅列で、どうしてそうなったか、なぜそうなのかをどこかにおいてきてしまう教育ばかり。でもリトミックに携わることで、そういった一番大事なことを自分も学び続けられる そうしたいと思える それがうれしい。  小学校の荒廃のニュ-スが取りざたされてきた。そろそろ点数結果主義、受験産業におどらされてきたたくさんの大人たちが 大切なことに気づいてもいいと思うのだが、実際のところ何も変わっていない。

オラトリオ「エリア」

 入手困難とあきらめていたサイトウキネンフェス。今年は病気で休んでいた小沢征爾復活でますます無理だと思っていた。ウチにレッスンに来る生徒さんの母から突然の電話でチケット2枚あるのですが、とのこと。即答で「買います!」  会場の松本市民芸術劇場も初めてである。駐車場に苦労すると聞いていたので、15時からの公演のところ、12時半過ぎには会場に到着していた。  今回の公演はオラトリオということだったので、舞台演出に関しては何の予備知識も持っていなかった。小沢氏がオ-ケストラピットに姿を現すと、会場からはひときわ大きな拍手が沸いた。  私はこのメンデルスゾ-ンのオラトリオに関してはまったく予備知識はなかった。しかしほんの短い間パンフレットの解説を読み、実際の演奏が始まって、両脇のテロップに歌詞の訳が流されていくのを見ていたら、この楽曲の持つ意味、奥深さ、現代に通ずる内容に、どんどん引き込まれていった。しかもシンプルながらかなり芸術性の高い背景をはじめとする舞台に、オペラそのものを髣髴させた。  自分を信心深いとか宗教的と思ったことはあまりない。しかし、途中の教会でのオルガン伴奏を思い起こさせる4重唱、ラストのア-メンの合唱の余韻で、知らないうちに頬を涙がつたっていた。  歴史は繰り返す。色々な意味でそう思う。民衆はいとも簡単に強いものに煽動され真実が見えなくなるときがある。自分の立っているところをもう一度見直したいと思った。見極めるのは自分自身である。

中学生の底力

 八月始めに行われた長野びんずる祭り。長女のクラスはクラス全員で参加することを決めてから、自分たちで少しずつ分担しながら準備していった。未成年者の夜の祭り参加ということで、親も係を決めてお手伝いすることが毎年の恒例となっている。  私はこどもたちから頼まれたことと、子どもの計画の中で付け足すことがあればチョコッと口を挟むくらいで、後は子どもたちに任せておいた。  当日の祭りが19:00から始まり、15分踊って5分やすみそのあと、35分踊って10分休みを3セット。踊りだけを単純に足したら2時間ほぼ踊り通す祭りである。最初の15分は楽勝。その後の踊りからやけにテンションが上がり始めた。これまで予定されていなかったジャンプが踊りに加わり声も張り上げっぱなし。クラス全体がまるで巨大な塊のように動きだしたのである。周りのクラスは疲れたからと歩いたり、おしゃべりに花が咲いているのに、この子たちは何?なんではじける笑顔で踊りつづけるの?あきれているうちに、一緒に参加している親たちもまたヒ-トアップ。最後のカウントダウンの後の「ヤッタ-!」の声 声 声。この感動 うまく伝えられず残念・・・。 中学生たちが間違いなく自分等の力で成し得た祭りだと思う。  しかも、次の朝5時半集合の朝掃除も、電車の始発が動いていないにもかかわらず、20人ほどが集まったとか。私は都合でいかれなかったのだが、何に対しても一生懸命マジメに取り組んでる姿に、実は結構感動したのである。  とかく親は「こうしなさい」「それはだめ」「言うとおりにしてればいいの」のようなことばで中学生をがんじがらめにしている。でも彼等はちゃんと意思を持って判断をしながらちょっとは寄り道して、でも自分らしく歩いている。大人はもっと中学生と対等に対するべきだと私は思う。  中3の彼等がやけにカッコよかった。自分の体力不足にはがっかりしたが、気持ちのよい風がふきぬけたような気分になれた。親の係をやることができて本当によかった。

刺激的な週末

 安曇野で「初心の会」が行われた。時々おじゃましている川田先生のお知り合いの方々が老若男女、立場を超えて二十数名集まっての会である。もともとは公立の学校の先生方の哲学を学ぶ会である。そこに今回は一緒に学びたいという母親(私も含め)5人も参加した。東京方面から、日本聾話学校の先生方6名と私立のカリタス小学校の先生がた2名もいらっしゃった。そして何より驚いたのはかつて附属長野小の校長先生をされた先生方で今なお子どもたちの将来を案じ、熱く教育を語りながら哲学を学んでおられる大先輩が3名(85歳の方も!)も加わっての会である。全員が読み合わせたのは、信州教育に深く携わった木村素衞先生の著書から「表現愛と教育愛」である。  ところがこの日の夜長野びんずるが行われた。長女のクラス全員が参加するこのお祭りで役員をやることになっていた私は、これを休む訳にはいかない。まず安曇野の初心の会の始まりだけ出て、4時過ぎには長野に向かった。このびんずるの様子に関してはここにかききれないので、また後ほどにしたい。  午後9時半過ぎにびんずる祭りを終えた私は、何リットルのも汗のしみこんだTシャツを着たまま高速を飛ばし、11時15分には安曇野で風呂に入っていた。  集った方々の話は尽きないらしく、深夜までどこかの一室で歓談が続いたようである。私はというと、同室のお母さん方3名と延々おしゃべりに花が咲いた。身体はすっかり疲れて眠いはずなのに・・・。  次の日は先生方の実践レポ-トを聴いた。実際のところこの会に参加したお母さん方は何を感じたのだろう、と思う。子どもたちとの授業の様子を様々な場面を例にとって報告し考える研究会。もしかしたらこういう場に自分の子どもも話題となったり取り上げられたりしたのだろうかとか、先生は私の子どものどんな点をどう捉えたのだろうか など。でも実際のところそんな個人的なことより、はじめて参加した先生方とのこの会で、先生方の熱意に深く感動したお母さん方がほとんどであったと思う。では、私はいったいどんな立場でその場にいたのだろうと、今更ながら思う。  正直なところ、長野に帰らなければいけなかった分、やはり不完全燃焼であった気がする。今の学校に対する危機感をもっともっと話し合いたかった気がする。大先輩の先生方にもっときりこんでいただきたかった気もする。そして何より私の子どもに向かう姿をたくさんの人から指導いただきたかった。自分の中のどんなところが強引でひとりよがりなのか ということについて・・。人間としての未熟さは、口では色々いえてもなかなか自覚できないものである。  子どもたちの前に立つ人間に区別はないと思う。それが先生であろうと親であろうと社会の様々なポジションの人であろうと。これからの子どもたちの将来を真剣に考えるためにも、たくさんの違った立場の人が集う場は、この先きっと必要である。でもそういう場を持とうとしても、なかなか定着できないのが現実。だからこそこういう場を創ってくださった川田先生の熱い想いに感動するのである。  私の中では、親の本音を先生にぶつけるような、次回を期待したいのだが、果たしてこの会の行く先がどうなるかは今のところ分からない。参加者がどんな思いを持ち帰ったのだろう。家に帰って、木村素衞の日記を少し読み、ゲ-テを3冊買った。

八月

 梅雨が明けたのは良いが、朝の風はまるでお盆あけのような涼しさだった。夏本番というよりもう夏の終わりの気配がする。  受験生の長女は夏期講習に通っている。ずっとアウトドアで動き回っていたのに、さすがに勉強しなくては・・・という気持ちになったらしい。真っ黒だった顔や手足がずいぶん色が抜けた。でもなれないことなので、いすにこんな長い時間座ってたらどうかなるよと 腰をさすっていた。変わってどちらかというと対照的に白かった次女が姉と同じソフトテニス部の部活と自主練でずいぶん顔が日に焼けた。友だちと約束して自転車で市営のテニスコ-トに通うまでになった。(ひとりで外出するなんて考えられなかったのに)  受験生の親のほうがまいってしまうよ という噂を聞いたが、おかげさまで私は私のことを精一杯やらせてもらっている。(ただ夏休みというのに毎日のお弁当作りには少々閉口するが)  茨木のり子の詩集を何度も読んでみる。「はあ。」とため息。シュタイナ-の大村祐子さんの文章も読んでは思い当たることばかりで・・・。暑くても元気にレッスンに通ってくる子どもたちと自分のため息のギャップにあせり、また本を手にするこの頃。