「ロボット化するこどもたち」という本を興味深く読んだ。ロボットを作る過程と教育とのおもしろいほどの重なりが書かれていて、そこに加えて自閉症児の学びに関する研究も書かれていた。
総合学習がなぜ浸透しないのか、ずっと疑問に思ってきた。総合学習をすることがなぜ大切なのかを、周りのたくさんの人に伝えたくてもうまく伝わらなくて結局口を閉じてしまう。だからこの本を読んですっきりした。そして同時に、今の教育に対する危機感を余計強く感じている。
リトミックについて、先日よくわからないという人からこんなことを言われた。「リトミックはいいというけれど、もし自分の子どもをレッスンに行かせるとしたら、何年かすればこんな風になります というものを実際見てみないと納得できない面があるんですよね」そう、だれもが結果を見たいと思うしその結果がこんなに素晴らしいものだという保障があればいくらも何でもやらせたい というのが今の親のだれもが考えることなのだろう。でもこの「ロボット化・・・」の本の中で印象に残っていることは、教えようと躍起になってもダメであること、目標到達までの過程を逐一分析して一つ一つ確実にできるようにしていく学習はこれからの学びではない、ということを言い切っているのである。つまり無駄や回り道、あるいはアクシデントを経験することによって、まるで副産物みたいに教えたいと思っていたことがどんどん身についてしまうということ。つまり教える側に楽なこと~○○法のような教え方~は教えられる側には身についていかないことで、教える側(親も含め)がひたすら待ってその子のこだわりや関心を観察していくことが大きな学びにつながるというわけである。
いいかえればこれまでの教育は教える側にとって楽なことで、子どもの学びの立場に立っていないということだと思う。子どものフリ-な時間を確保して欲しい。常に何かをさせるのではなく、時にいらいらしてもとことん子どもの時計に合わせることをして欲しい。汗びっしょり、泥だらけ、雨にうたれること、そんなちょっと気持ち悪いけど最後には「いいや!」って思ってしまう体験を子どもと一緒にして欲しい。
今の子は授業(レッスン)に集中できない子どもたちである- そうくくるのではなく、ほんの一瞬でも全員が集中できる場面を自分は提供しただろうかをいつも自問できる指導者でありたいと思う。回りと違うことをしている子のわけを観察、分析したら見えてくるたくさんのメッセ-ジがあるはずだから。教育について私たち大人がもっとしっかり考えなければいけない。それは人間がどう生きるか ということにつながる。